お店に来ていただいたお客様に、美味しく、そして楽しく食事をしていただきたい・・・
そんな思いで私たちは技を磨き、心を込めて料理をお出ししています。
そして良い料理を提供するためには、よい素材も必要です。
光琳では、地元秋田はもちろんのこと、全国の優れた生産者の
皆様方のご協力をいただき、出来る限り上質の素材を使用しております。
それはまた、食文化を守ることにも通じ、なによりも安全・安心、そしてヘルシーに繋がってゆくことだと考えております。
どうか、光琳の料理を通して、上質な素材の持つ深い味わいをご堪能ください。
生間流門人 鈴木 清
2004年6月6日撮影
貞観元年(清和天皇の御代)藤原中納言政朝卿は勅命を奉じ式正を定めましたが其の時「食」と言ふ物にも式に依つて現はす為に式庖丁なる儀式を定めました。
此の儀式が始まりまして丁度千百余年になります。
従つて後宮中では大礼儀式の場合餐膳の前には必ず此の式が行はれていました。
政朝の末胤は小野田と称していましたが、鎌倉幕府に仕へ源頼朝公より生間の姓を賜はり生間五郎左衛門尉兼慶と名乗り下り三つ藤の定紋を戴き幕府の式事の長となりました。後子孫は足利に仕へ織田に仕へ後豊臣の臣となり十六代生間三郎左衛門尉兼長に後陽成天皇の豊公の招きに依り聚楽第行幸の節は御滞在中の調理は兼長、兼秀父子に依り門人数十名と共に生間流の秘法で行はれました。
尚式庖丁を天覧に供し秀吉公より太刀一振り賜り、後豊公の命により其の御養子たる八条宮式部卿一品親王の家臣となり従五位式部典膳出雲守となりました。今に生間家に伝はります桂宮別業記こそ当時の宮家の事を伝へる只一つの資料として有名であります。
幕府使臣上洛や朝鮮使節来日の節は生間流餐膳を以つて七五三、又は五三の調理を行ひました。
維新の時は従三位中納言烏丸光徳卿を補佐し共に勤王を唱へると共に隠密として東西奔走活動しました。これ生間二十五代正芳であつて其の功績まことに大なるものが有ります。
明治十四年十月三日桂宮薨去後相続の宮おはせぬを以つて家臣悉皆御暇となりました。之より家居専ら子弟を教授しました。